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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -692- エナメル開発物語

  • 日本商業新聞
  • 2024年11月5日
  • 読了時間: 3分

長野県の温泉旅館の仲居さんからの手紙がS社に届いたのは昭和51年のことだった。


その手紙にはこう書いてあった。「ネールエナメルが大好きで、配膳時にお客様にきれいな

爪だと褒められるのが嬉しく、自慢でもあったのですが、最近塗ると痛みを感じるようになり、ちょっとした刺激でも割れるようになってしまいました。私の爪は薄くて脆いのですが、こんな私でも安心して使えるネールエナメルを作って頂けないでしょうか」



これは氷山の一角だとある商品開発部員は考え、実情を調査しようと思い立った。しかし彼の立てた大規模な調査計画に周囲の理解は得られなかった。爪に塗るものだから、もともと塗料に近い組成なのだから刺激があって当然…、安全性を重視するはずの研究所の担当部署までもが消極的な姿勢を見せた。


その流れを覆した男がいた。研究所長のO田だ。O田は団塊農耕派に問うた。「ネールエナメルは塗料か、それとも化粧品か?」まだ20代だった団塊農耕派に迷いは無く、即座に答える。「塗料だと思います」答えた瞬間、O田の雷が落ちた。「化粧品会社にいる資格なし、辞めてインク会社に行け」O田は本社の一商品開発部員の提案を受けるつもりでいた。



叱られたのにプロジェクトに入れられた団塊農耕派は、まず爪を傷める物質の探索から始めた。結論は直ぐに出た。当初はリムーバーのメイン溶剤のアセトンを疑ったが、そうではなく、エナメル本体の主要な溶剤であるトルエンが犯人であることが分かった。


困ったことになった。トルエンを除いたエナメルなど誰も考えたことがない。背骨を抜いて歩けと言うようなものだった。トルエンが無ければ、滑らかな使用感触も顔料の分散安定性も維持できない、それが当時のネールエナメルだった。



ゼロから処方を組み立てる作業が始まった。トルエン以外の溶剤で膨らむ粘土をアメリカから調達したり、少しでも爪に優しい樹脂をスキンケアで使う原料群から探してみたり、試行錯誤は2年以上続いた。そしてようやく完成形のめどが立ったが、周囲の女性の評価は〝つやも剥がれも70点〟、従来のネールエナメルの域には達しなかった。


しかしそれ以上進展させるスキルも気力も団塊農耕派は持ち合わせていなかった。この処方を改良処方と言うには恥ずかしかったが、爪に優しければそれでもいいのではないか、団塊農耕派は正直にO田に報告した。O田は怒らなかった。そして笑いながら言った。「それが化粧品、今までのものはあんたが言ったように塗料だったんだよ」



O田の一言で団塊農耕派の後ろめたさが消えた。そして東京近郊の美容部員の協力を得て大規模なモニターテストを行った。結果は満足のいくものだった。


薄い爪の持ち主でも安心して使える品質を備えていた。昭和53年11月ライトフィールエナメルはこうして生まれた。それから半世紀、トルエンフリーのエナメルはいまや業界の常識になっている。心配だったマイナス30点の部分は後輩の研究員たちが存分に埋めてくれている。



O田も団塊農耕派も長野の女性のその後を知らない。このエナメルを使ってくれたかどうかさえも知らない。それを聞きに行く勇気ももちろん無い。

(団塊農耕派)

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