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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -161- 年賀状を止めない

 コロナのおかげで知らなくても良いことを知ってしまった。会社なんか毎日行かなくたって問題は無いし、会議や印鑑などがどれだけ仕事の能率を下げていたかもわかってしまった。だから多くの人はアフターコロナの時代には新しい効率的な仕事のやり方があると確信し、その準備を始めようとしている。

 


 決して〝しぶしぶ〟ではなく、むしろ〝わくわく〟しているように見える。はたしてそれが良いことかどうか、団塊農耕派の気持ちは複雑だ。



 令和は間違いなくデジタル化が進む時代になると思う。しかし団塊農耕派はその拙速さを危惧する。ひきこもりを公然と認め、社会性の無い人間を大量生産するのではないかという懸念を持つ。時代遅れのアナログ人間の言い出しそうなことだと一笑に付されればいいが、昨今の日本の政治家や企業の劣化ぶりを見ていると、この懸念は的外れとは言い難い。変動する時代のある局面だけを捉えて、誤った方向にカジ取りしてしまい、日本は20年もの間、経済成長を止めてしまったが、その原因はトップに立つ人材の視野の狭さ、すなわち発想力不足の原因となる「小者感」にあると思う。この小者たちが居心地の良い無機質なデジタルの世界に篭れば、その思考回路はますます錆びてくることが想像できる。



 化粧品とは消費者との価値創造競争だが、テレワークを採用している企業の社員ほどこの能力が低下している。街に出ず、顧客をナマで見ず、ネットのエセ情報をコピペし、その薄っぺらな美辞麗句で提案を通す安直な仕事ぶりが、コロナの時代の化粧品開発のスタイルのようだが、これが将来ルーチン化するとなると、企業には衰退の道しか残っていない。



 アフターコロナの時代のデジタル化とはあくまでツールの一つに過ぎず、それを極めることが目的になってはいけない。むしろコロナ以前より人恋しい世界を作ることが大切で、それはかつて日本の高度成長を支え、化粧品専門店の基礎体力を形作ったものに通じる。



 年賀状。いまや不要論を唱える人が多く、団塊農耕派にも毎年ご丁寧に「今年でお終いに…」という葉書が届く。どうやら印鑑や不要な会議と同列にみなされているようだ。肉体的な大変さ、断捨離の励行など止める理由はたくさんありそうだが、いまだに年賀状に正月の風情を感じる団塊農耕派は寂しい気持ちになる。年賀状にそれほどの義務感を感じずに、親しい人とはこれからも気楽にやり取りすればいいのにと思うのだが。



 新年の挨拶をネットに委ねる人も多くなった。大勢に一斉配信する人もいる。とても味気ない行為だと思わざるを得ない。年賀状の愉しみは、受け取った1枚の葉書から感じ取れるあらゆる匂いを味わうことであり、文字の下手さも、文法の間違いも、意味不明の文章も愛嬌。何も書いてなくても、その空間になつかしい思いを馳せることはできる。



 年賀状を無用の長物と考える人は断捨離意識の強い人だと思う。家族や周囲に迷惑を掛けたくない思慮深い人かもしれない。終活のつもりかもしれない。でもそれではあまりに寂しい。急病や急逝に周囲は大慌てするかもしれないが、それも天命で、そこまで計算して生きるのは息苦しい。何もかもが現在進行中のまま旅立つのは無責任かもしれないが、恥じることは無い。楽しいし、団塊農耕派はおそらくそうするだろう。


(団塊農耕派)

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