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【日本商業新聞 コラム】-732- アメリカ人⑶辺野古

  • 日本商業新聞
  • 10月14日
  • 読了時間: 3分

多くの日本人は誤解している。辺野古に新しい米軍の基地ができると思っている人が多いが、そうではない。キャンプシュワルブは昭和32年には海兵隊の基地としてすでに出来ていた。ベトナム戦争の頃は相当な賑わいを見せていたそうだが、停戦とともに閑古鳥が鳴くようになり、その後は静かな田舎町の様相を呈していた。



団塊農耕派が最初に辺野古を訪れたのは、沖縄がアメリカの統治下にあった昭和43年のことだが、同じ基地の町でもアメリカがそのまま移植されたようなコザ(今の沖縄市)とは違い、辺野古の町には落ち着いた雰囲気が漂い、兵士の集まる飲み屋街が無ければ、一般的な日本の田舎町と何ら変わり無かった。


沖縄中部の町、名護で台風に遭い、那覇までの国道1号線(今は58号線)が通行止めになり、やむなく山道を東進して着いた場所が辺野古だったが、そこは基地の町と言うより、兵士がおとなしく居候しているような佇まいで、団塊農耕派が持っていた〝基地の町〟の印象はことごとく覆された。嘉手納や横田とは全く違う〝兵士が主役でない町〟だった。ちなみに辺野古は現地では〝ヒヌク〟と発音される。



辺野古では住民と兵士が良いコミュニティを作っていた。彼らには沖縄の地を無償で借りているという罪悪感すらあるようで、住民に優しく自ら溶け込もうとする姿勢があった。


完全に日が落ち、空腹のまま飛び込んだ辺野古の飲み屋に炭水化物系の食べ物は無かったが、店主のはからいでカレーライスを作ってくれることになった。「ダイムカレー」が10セント、「クォーターカレー」が25セント、と店主が笑いながら言う。1ドル360円の時代、貧乏学生の身にはダイムカレーでも高かったが、それ以外の選択肢は無かった。


片栗粉で増量した超薄黄色カレーライスが出てきたが、それを見て驚いたのは隣席の酔っぱらい米兵だった。「ルーが足りない。もっと肉を入れてやれ」とやかましい。アメリカではヒッチハイクの若者に優しくするのは常識で、店主の行為は虐待だとまで言う。


結局10セントは「出世払い」、要するにタダになったが、それ以上の余禄があった。米兵が自分たちが食べていたフライドポテトやTボーンステーキをお裾分けしてくれたのだ。団塊農耕派にとって人生初の食べ物だったが、それを辺野古で味わうことになったのである。



街を貫く大通りを「アップル通り」と言う。また米軍の宿舎のある地域を「辺野古11区」という。アップル通りとはアップル少佐にちなんだネーミングだが、これは米軍からの押し付けではなく、町民が感謝の意を込めて自発的に付けている。それほど、町民に慕われた指揮官だったようだ。悪路、ぬかるみに困る町民をみて、兵士総出で道路つくりをしたという歴史がある。11区は「銀座9丁目」のように地図上には実在しない。運動会や盆踊りに参加するための便宜上の部落名だそうだ。



2回目の訪問はそれから40年後、鳩山首相が「最低でも県外…」と放言した頃で、町は騒々しかった。片栗粉カレーの店を見つけられなかっただけでなく、あの賑やかだった飲み屋街も無くなっていた。基地反対闘争で米兵を問答無用で嫌う連中が気勢をあげていた。双方が分かり合えない環境を自ら作っているようで悲しかった。

(団塊農耕派)

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