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【日本商業新聞 コラム】-731- アメリカ人(2) 優しい人たち

  • 日本商業新聞
  • 36 分前
  • 読了時間: 3分

日航機が墜ちた時、私は北米の田舎町に居たが、数日後、ポンデロサというレストランに行くと、そこには坂本九の「上を向いて歩こう」をたどたどしい日本語で歌う一人の青年がいた。エディだった。彼はファーゴのリース会社の若社長で、私は彼からビューイック社の車を借りていたので、すでに顔見知りだった。



彼は神妙に言った。「ボーイング社の飛行機が事故を起こしてしまった。広島の原爆と同じくらい申し訳ないことをしてしまった」 プラザ同意が発効する前の年、アメリカ中でジャパンバッシングが頻発していた時だけに、彼の一言は意外だったし嬉しかった。



ファーゴに沖縄出身の女性がいた。彼女は沖縄で米軍兵士と結婚し、アメリカにやってきたが、ベトナム戦争で夫を亡くしていた。3人の娘をもうけたが、一番下の5歳のセリカは難病で、ファーゴの子供病院に入院していた。


ある時セリカは「ミネソタにミシシッピの源流を見に行きたい」と珍しくわがままを言い、母親もその気になるが、肝心の車がオンボロすぎる。そこで私の出番と言うことになるが、その前日、その話を聞いたエディはフォードのランクルに乗ってやってきた。「ビューイックでは狭いし、揺れが大きい。今のセリカには大きな車が必要。これを使ってくれ」。クルマはガソリンが満タンだっただけでなく、ミネソタで使えるクーポン券や、地図、コカコーラに駄菓子…、エディは優しかった。 



ベロニカジョンソンはファーゴの旅行会社の社員だった。アムトラック(鉄道)を使う人の切符手配が主で、つぶれないのが不思議なくらいの小さな会社だったが、彼女はいつも元気いっぱいだった。


セントルイスで開かれる学会に行くための航空券を買いに行ったのが最初の出会いだったが、僻地便の宿命で、ファーゴの空港は早朝と深夜しか開かず、空港へはこの時だけでなく、いつも彼女に送ってもらっていた。町にタクシーが1台も無かったので、彼女はチケットを買ってくれた人には必ずこのサービスをしていた。



ファーゴでは日本食にご無沙汰だったが、ダウンタウンに『将軍』という日本食レストランができることになり、私はそこの経営者に頼まれてお品書きを日本語で書いてあげた。このとき経営者が韓国人であることと料理の不味さに気づいたが、後の祭りだった。


開店の日、私は日本食を食べてみたいと言うベロニカを誘って店に行ったが、そこで見たくない光景にでくわす。注文を間違えたアルバイトの中国人の少年を大勢のお客の面前で、経営者は罵倒し、あろうことか殴打したのである。興ざめとはこのことで、多くの招待客はチップも置かずに、黙って店を出たが、ベロニカはそれだけでは済まなかった。厨房に入り、鬼の形相で経営者を責め、少年に詫びさせたのである。その数日後、店を辞めた少年は旅行社を訪ね、ベロニカは中国系のレストランに彼を紹介した。情に篤く、強い女性だった。



セリカは7歳で天国に召されたが、エディもベロニカもとうに60歳を超えた。ノースダコタは今も昔もラストベルト。共和党が伝統的に強い。40年の歳月とトランプは彼らから思いやりの心を奪ってしまったかもしれない。まさか「アメリカファースト」を唱えていないと思うが、昨今のアメリカの様子を見ているとそんな心配もしたくなる。

(団塊農耕派)

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