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【日本商業新聞 コラム】-729- この程度の国民にこの程度の政治家

  • 日本商業新聞
  • 9月16日
  • 読了時間: 3分

松下幸之助はPHP誌にこう書いている。「国民が政治を嘲笑しているあいだは嘲笑いに値する政治しか行われない」「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しか持ちえない」。


また秦野豊という元政治家にいたってはもっと辛らつで、「この程度の国民にこの程度の政治」とまで言った。



いまこそこの先人の言葉を噛みしめなくてはならないようだ。


政治家は与党、野党を問わず日和見主義者ばかりで、世論や風評に怯え、国民受けすると思えばお金もないのにお年玉を奮発するオジサンのように振舞う。そして将来の人と国に禍根を残す。国民も五十歩百歩。情報過多の時代に副産物としてもらってしまった「思考力、判断力の翳り(かげり)」は国の将来を心配しなくてならなくなるほどに重症化している。


自民党が惨敗した先の参議院選は、長く続いた「おらが村の先生」や「名の知れた著名人」に投票するといった惰性の選挙を根底から覆したと言う点では画期的なものだった。



政党の重鎮や公募で地位をつかんだ数合わせの人たちが繰り広げてきたこれまでの選挙は、それでもこの人たちに任せておけば〝とりあえず安心〟と考える人が支えてきたが、政治の体たらくが目立ち、経済的な苦境に直面し、〝こいつらに任せておいたら大変なことになる〟と考え始めた人たちが反旗を翻したと言うことになる。それはそれでこれまで政治に無関心だった層が目覚めたのだから良いことなのだが、その原動力はほめられたものではない。


物価高や貧困に対する不満や鬱憤が反発エネルギーとなって今回の投票結果につながったという大方の分析は間違ってはいないと思うが、それ以外の要因があったことも否めない。減税や給付金など当座の収入に惑わされたり、一部政党が発信する根拠のない歯切れの良い誹謗や中傷に洗脳されてしまった人は少なからずいた。



さてその躍進した参政党や保守党だが、いずれも第3極として称賛されるほどの成熟した政党ではない。その政策は感情的で、斬新さに欠け、国を憂い、真剣に改革を目指したかつての「新自由クラブ」とか「みんなの党」とか「日本維新の会」とは一線を画す。公約も刹那的で将来を見据えた建設的なものは無かった。政党としての軸足が見えなかった。


千葉県の知事選でNHKを天敵とする党が20万票もとった時、〝熟慮することなく、SNSなどに洗脳され、節操なく行動に走る人たち〟が日本でも急増していることを悟ったが、今回の選挙ではそれが明確なものとなった。この風潮は石丸何某の選挙手法がもてはやされた昨年の都知事選や、パワハラ失職後に一転再当選となった兵庫県知事選の時にすでに露見していたが、〝コトの善悪などどうでもよく、異なる意見は問答無用で否定し、権威者や施政者を口汚くののしる姿勢〟はまさにトランプ流ポピュリズムに通じ、この流れを汲む政党が雨後の竹の子のように出てきて受け入れられる現状は決して看過できるものではない。



アメリカや韓国では選挙で個人攻撃するのは当たり前になっているが、日本はそうなりたくない。相手を尊重し、聞く耳をもつ、そんな当たり前のことができなくなる時代が日本にも来ているのなら悲しいとしか言いようがない。

(団塊農耕派)

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