top of page

【日本商業新聞 コラム】-728- カニ族

  • 日本商業新聞
  • 9月10日
  • 読了時間: 3分

いまは『バックパッカー』と言われているが、重いリュックを背負って歩く姿がカニのように見えることから、半世紀前は『カニ族』と呼ばれていた。



学生時代、団塊農耕派の夏はまさにカニ族そのもので、周遊券を使って日本中を歩き回った。ユースホステルは贅沢、神社の縁の下や終業後の銭湯の脱衣所が定宿、列車はホテル代わり、まともなホテルなど一度も泊まったことがなかった。

 

お金が尽きればアルバイトに明け暮れたが、昭和の日本人はどこでも優しく、労働以上の報酬をいただくことが多かった。一宿一飯の恩義を身に沁みて感じるのだが、大抵は戻った後、お礼の手紙で済ましてしまうことが多かった。


 

ルパング島で小野田さんを発見した鈴木紀夫さんも同じころ「カニ族」として闊歩していたようだが、団塊農耕派と違うのは海外に目を向けていたことだ。彼は放浪旅の団塊農耕派とは違い、〝パンダ、日本兵、雪男の発見〟という目標を持っていた。


ほぼ同い年で隣町の中学の卒業生である彼と会ったのは内房線(当時は房総西線)の車中、いや正確には汽車のデッキだった。デッキは高校生の人気の場所だったが、いつも朝鮮学校の生徒に追い払われ、長居はできなかった。ところがその日はそこに学校は違うが同じ黒ボタンの学生服を着た男がウンコすわりしていた。それが彼だった。初めて見る顔だった。


八幡宿駅で彼を乗せ、浜野駅で団塊農耕派を乗せた汽車はまもなく蘇我駅に着く。そこからは朝鮮学校の生徒が乗ってくる。団塊農耕派は客室に移るようにアドバイスするが彼は応じない。「撃退する」とまで言い、強気だった。しかし蘇我駅を出てまもなく彼は客室にやってきた。「譲ってやったよ」とは言うが、明らかに顔は引きつっていた。そのあと乗り換えの千葉駅まで彼と一緒だったが、それが彼と話した最初で最後の時間だった。



それから数年後、カニ族を卒業し化粧品会社に就職が内定した頃、驚くべきニュースが飛び込んでくる。どこかで見たような男が小野田さんと共に映っている。彼はカニ族どころか稀代の発見家になっていた。内房線の中で感じたスケールの大きさが現実のものとなっていた。それに比べわが身の何とお粗末なことよ、カニ族として社会を見てきたのに全てをリセットして平凡に就職しようとしている。団塊農耕派の落ち込みは半端でなかった。


しかし彼は、雪男を探しに行ったヒマラヤで37歳の生涯を終える。常識的な人間は彼の生き様を否定的に見るだろう。雪男などツチノコやネッシーと同じくらいの危うげな存在で、それにこだわるのは知性に欠けるのではないかと。でも残留日本兵だってまさか見つけられるとは思わないなかで突進していった彼を思えば、雪男の捜索も彼の夢として十分に正当化できる。現代人が失った愚直で壮大なロマンを彼は持ち続けていたのだと思う。



小野田さんはヒマラヤで彼の葬儀に参列したあと、日本に見切りをつけてブラジルに移住したが、小野田さんが彼の一番の理解者だったのではないかと思う。「上官の任務解除の命令がないうちは投降できない」と頑なに思い続けた小野田さんの律儀さや、見通しのない探検に命を懸けた鈴木さんの純粋な生き様に我々日本人は何を感じるべきなのか。時代遅れと片付けてしまっていいのか。終戦の季節になるといつも自問自答する。

(団塊農耕派)

コメント


bottom of page