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【日本商業新聞 コラム】-720- コメの尊厳

  • 執筆者の写真: QuaLim 株式会社
    QuaLim 株式会社
  • 7月8日
  • 読了時間: 3分

神楽坂に銘柄米をウリにする格調の高いレストランがあるが、ランチ時に入ってひどい目に遭ったことがある。


肝心のコメが美味しくないのだ。いや不味いと言っても過言ではなかった。不味いのは我慢してもよいが、著名な産地を堂々と名乗るのが許せなくなった。カスハラにならない程度に聞いてみた。「ご飯、美味しくないのだけど…、」


店員さんの回答に驚かされる。「まだ11時なので、今日はまだ炊いていません。昨日のご飯をチンして出しました」 あっけらかんと言うのである。この店が最もこだわるべきところをないがしろにしているのに、いささかの罪悪感も持っていないようなのである。2度とこの店の敷居を跨がなかったのは言うまでもない。


地元のターミナル駅にあるおにぎり屋もメクソハナクソ。ブームに乗って賑々しく開店したが、ここのコメもまずい。ただしこちらはコメの種類ではなく、炊き方に問題があった。芯を感じる硬さは丁寧に炊飯していない証拠で、指の間からパラパラとこぼれる様子は昔アメリカの片田舎で食べたいかさま日本料理店で出されたおにぎりそのものだった。



さて令和のコメ騒動は小泉ジュニアの登場で応急手当が終わり、消費者の低価格欲求は確実に満たされたようだ。しかし団塊農耕派には腑に落ちないことがある。政府備蓄米を安価で放出するにあたって、古古古米でも美味しいと言う人が居るのだが、「本当かよ!」と思ってしまう。この人たちの味覚を疑う。神楽坂の件のレストランに行っても千葉駅のおにぎりを食べてもそれなりに満足してしまうのではないかと思う。



〝新米願望〟は伝統的に根強い。新米には特別の価値と特別な思い入れがある。だから春に『御備謝(おびしゃ)』で豊作を祈り、秋に『新嘗祭』で五穀豊穣を祝う。そして美味しさに継続性を求めず、旬の瞬発的美味こそがコメの神髄だと信じてやまない。だって来年になればまた美味しいコメが同じ手間暇をかけて、仰々しく出てくるのだから。



今年採れたコメは今年中に食べ終える。それを基本線に農家も農協もやってきたが、コメも市場経済の一員となってしまった以上、そんな論理は通じなくなるだろう。品種改良や保存方法の改善などによって美味しさを長期保証しなくてはならない時代が来るかもしれない。それはコメの本質を狂わせることなので好ましくないが、備蓄米でも美味しいと言ってくれる味覚レスの人も居るのだから農家は安心して低い土俵に降りればいい。



実は団塊農耕派はコメ騒動のさなか、近所の米穀商に懇願されて土蔵の肥やしになっていた3年前のコメを提供した。白米にして味に大きな問題のないことを確認してから出したが、後ろめたさは今でも引きずっている。捨てるつもりのコメにまだ価値が残っていたことを米穀商はこのように分析している。「天日乾燥したコメなのでストレスがかかっていない。籾米のままで保存していたので酸化が進んでいない。土蔵の土壁が湿気を防ぎ、傍の青桐の木が夏は光を遮り、冬は日差しを送って土蔵を温めた」 



保存方法のヒントはこんなところにありそうだが、怪我の功名以外の何者でもないと思っている。コメは新米の時期を過ぎればその価値は加速度的に落ちると言う神話に揺るぎはない。

(団塊農耕派)

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