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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -188- 中庸のススメ

原発は極悪、石油や石炭は悪、風車や太陽光が善…、どうやらそういう決まりらしく、世界中が悪を葬り、善で満たそうとしている。風力発電用のジェネレーターや太陽光発電用のパネルがいかに景観を汚そうが、地球の未来のためには仕方ないと思っている。大げさに言えば、築いてきた文明を壊し、原始に戻ろうとしている。SDGsなる概念的で整合性の取れない目標を掲げて、過去を自虐的に総括しているが、ロシアにエネルギーを断たれると、「やはり原発も石炭も必要では」と思い直すのだから、節操の無さは天下一品だ。


 プラスチックも負けずに嫌われ者になってしまった。化粧品容器の主役の座をガラスから奪い、我が世の春をうたってまだ半世紀も経っていないのに、この凋落ぶりは目を覆うばかり。努力をしてきた業者には慰めの言葉もない。でも「待てよ」と言いたくなる。


 「悪いのはプラスチィクそのものではなく、それを無秩序に使ってきた人間ではないのか。海洋汚染を憂うが、人間が正しく始末していればそんな問題は起きなかったのだ」

 

原発も火力発電もそう。

 

 斜陽産業に位置づけられ、将来を否定されたのだから、技術が向上するわけがない。研究を重ね、安全性と環境対策を万全なものすれば、二酸化炭素など容易に抑えられると主張する学者はいないものか。産業革命のあった19世紀、それを高度に成長させた20世紀、19世紀には在った倫理観が20世紀になるとその商業イズムのせいで失われたと嘆く哲学者がいるが、効き目の強い薬を使う時には副作用を恐れるのが常識なように、エネルギー政策の分野でも地球環境を汚さないような使い方を最初から考慮する必要があったのではないかと思う。副作用がこんなに大きくなってからでは遅すぎるが。

 

 石炭だってこのまま消えていくのは悔しいだろう。いいかげんな使い方をされた上に、人間どもはその反省もなく欠陥の烙印を押して葬り去ろうしているのだから。原発だって同じ。安全な操業が可能なのに、なぜか地震や津波の被害を受けやすい場所に設置したのは人間様なのだ。おだてられて、甘やかされて、捨てられて…、そんなみじめな気持ちだろう。

 

 日本にはあいまいさを認める文化があったはず。異分子を受け入れる度量もあったはず。なのにエネルギー政策や地球環境に関しては何故一面的な選択しかできないのだろう。ガソリン車が残ってもいいし、石炭で暖をとる地域があってもいいし、電力不足のときには原発を動かしてもいいではないか。それが懐の深さで、国の守りにもなる。国民はもう一度ベンチに戻って考えてほしいものだ。

 

 「中庸」という言葉があるが、これは平均とか妥協を意味する意味ではない。価値の異なるものが共存し、互いに高めあう状態を指している。エネルギー政策はかくあるべきだと思う。肝心なのはエネルギー種の選別ではなく、地球環境を守ること。ならば技術開発を前提として「中庸」に徹することが後世に禍根を残さない唯一の選択肢だと思う。原発も石炭も補佐役として使い続ければいい。プラスチックも使用を止める必要はない。ひとかけらも残さず回収するシステムと再利用のための技術を開発すればいいだけのことだ。


(団塊農耕派)

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