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【日本商業新聞 コラム】-762- 別荘

  • 日本商業新聞
  • 2 時間前
  • 読了時間: 3分

「隠れ家」はいくつになっても憧れる。不器用の代名詞だった団塊農耕派にも少年時代、いくつかの隠れ家を作った経験がある。



稲刈り跡の田んぼに作られるいくつかの稲村(刈り取った稲束を円錐状に積み上げたもの)の間に3匹の子豚の長男の家のような粗末な居住空間を作って遊ぶのが幼年期の毎秋の楽しみだった。


雨も防げる秀逸なものだったが、ある年食べ残しのお菓子を食べる大きな青大将を見つけて怖くなり、それ以降、稲村に別荘を作りたい気持ちは消滅した。後年「お医者様ごっこをしたのでは」という疑念の質問をする不埒な人が居るが、純真な子どもがそんなことをするはずが無い。


代わりの別荘は土蔵の2階の明かり取りの近くだった。学習道具なども持ち込み、気

に入った場所だったが、ここは米蔵でもあり、今度はねずみの出没に悩まされた。ところが小学3年生の時、ここで転校生と喧嘩して怪我をさせた為、祖父にこの場所への出入りを禁止された。その後農協に貸してしまったので我が第2の別荘も簡単に崩壊してしまった。


少年時代最後の別荘は青桐の木の上だった。青桐は土蔵の脇にあり、夏の間は豊富な葉で日陰を作って土蔵を冷やすが、団塊農耕派はその木の枝にやぐらを組み、ちゃぶ台を乗せ、ティータイムや勉強用に供した。3人も登れば壊れそうだったことと夏季だけの開店だったことからこの別荘も長続きしなかった。青桐は6年前の台風で倒木し、今は存在しない。


その後、18歳で田舎を脱出してからは隠れ家には縁が無かった。吉祥寺の下宿も横浜の社宅も浦安の自宅も主宅であり、そんな遊び心を持つ余裕は無かった。投資目的でマンションや別荘を買う同僚も居たが、あくまで団塊農耕派にとっての別荘とは、心落ち着く苫屋(粗末な小屋)であり、リッチで自慢できるところであってはいけなかった。



ただ化粧品会社勤めの晩年、一度だけ別荘を意識したことがあった。小さな研究所を任され、横浜に赴任したときのことだ。総務部が提示した居住マンション候補の中から、一番高価な横浜港の見える物件を選んだ。


研究所に近く、家賃も安い物件を選ぶと思っていた総務は怪訝な顔をしたが、団塊農耕派には考えがあった。不遇な人事に抵抗したかったわけではない。週末に自宅に帰る身に本格的な家は要らなかった。ここで借りる家は研究所員がいつでも集まれる場所にしたかった。だから個人の荷物は最小限にし、泥棒に取られても惜しくないものばかりにした。鍵も基本的にかけない、研究員が自由に使ってよい、そんないい加減な運営を1年半もした。


忘年会や送別会もここでやり、所員の財布を痛めなかった。事故が起これば、また会社の就業規則に照らせば、いまならコンプライアンス違反として叱責され、会社からの戦力外通告も早まったことだろうが、神様は見逃してくれた。当時の研究員が喜んでくれ、仕事への活力にもなった、それだけで別荘の意義はあった。



退社と同時に田舎に戻り、庭と田んぼの間に建てたログハウスでいつもこのコラムを書いている。ホームセンターで買った安普請のログハウスだが、団塊農耕派にとっては快適な別荘で、田植の時期は揚水組合の会合にも使っている。植えたばかりの苗が初夏の薫風にそよぐ光景は、粗末な別荘だからこそ味わえる至福のひと時である。

(団塊農耕派)

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