母校が共学になって15年、ときどき近くを通りかかるが、別の学校になったようで校門をくぐるには度胸が要る。校舎の裏に回り、先輩面して野球部の練習を覗くと、なんとそこには数人の女子マネが…、うらやましい時代になったものだとつくづく思う。
半世紀以上前、「関東の黒ボタン」と言われた母校はバンカラがウリで、団塊農耕派もその気になって「女の子などに興味が無い」といった顔をして闊歩していたが、その実、近くの女子高が気になって仕方なく、マラソンになればその近くでスピードをあげたし、文化祭には〝ついで〟と〝しぶしぶ〟を装って潜入したものだ。それでも生来のオクテが戦果を得ることなどめったに無かった。野球も勉強もそこそこ出来たし、家もそれほど貧乏でもないし、もてないのは別学の高校へ入学してしまったからだと本気で思っていた。
だから生まれ変わったら今度は共学の高校に行こうと決めていた。しかし最近その気持ちが揺らいでいる。青春を謳歌したければ共学のほうがたしかに良いが、自らの人生で高校の3年間がその後の人生を決める貴重な時期だったことを思い起こし、生まれ変わってもこの時期を雑に過ごしてはいけない、一心不乱に勉強し、体を鍛える時期にあてなくてはいけない、そのためには男子校のほうが良い…、殊勝にもそう考えるようになっている。
共学でも同じことは出来ると言う人はいるが、それは明らかに勘違いで、向学心など異性への興味のまえには木っ端微塵になってしまうものなのだ。勉学と恋愛の両立できる人間はたまにはいるかもしれないが、それは出合いの神様の悪ふざけか、インテリジェンスのカケラもない若者のすることで、多くの若者は〝井の中の蛙〟になって勉強やスポーツに勤しんでいても、その井戸に女の子が入ってきたら、その志はあっけなくしぼんでしまうものなのだ。
ちなみに高校野球の強豪校には女子マネはいない。自己研鑽(実力向上)には邪魔なのだ。女子マネは弱いチームの象徴のように見える。古くさ過ぎて笑われるかもしれないが、人生の一時期、それも成長期には、徴兵制に応じたと思って、異性への興味を封印して自分磨きに励むことが大切…、それが固陋な団塊農耕派の偽らざる本音だ。
ところで別学の多い埼玉県の高校の同窓会が国や県の共学化推進の流れに反対しているが、その根拠は団塊農耕派の意見と似ている。今どきこんなことを言い出せば時代遅れと言われるのを覚悟で発言しているわけで、その信念の強さを感じる。伝統、校風、思い出、そんな貴重なものは別学で無ければ味わえないと主張しているが、それは表向きの理由で、その背景には昨今の行き過ぎたダイバーシティへの抵抗もあるような気がする。
「男らしさ女らしさ」が禁句となり、許容されてもよい良質な性差までもが差別と指摘されてしまう時代、そのうち別学は男女差別を生む温床と言い出す人が現れてくるだろう。しかしなぜか別学を経験した人間のほうが異性を敬い、その弱さをいたわる優しい心を持っている。十代のうちから異性に慣れ、胸がときめかなくなる環境におかれることのほうが、長い人生から見れば不幸なことのように思える。手前味噌になるが、団塊農耕派が化粧品の業界に長く居られるのは別学の高校を出たおかげだと思っている。
(団塊農耕派)
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