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【日本商業新聞 コラム】-761- デコピンは暴力か愛情か

  • 執筆者の写真: QuaLim 株式会社
    QuaLim 株式会社
  • 6月9日
  • 読了時間: 3分

大谷翔平のデコピンは可愛いが、団塊農耕派のデコピンは〝暴力〟かもしれない。



3年ほど前その事件は大宮駅の京浜東北線のホームで起きた。発車まで10分ほどあり、団塊農耕派はゆっくりと階段を下りていたが、小学校低学年くらいの子どもが乱暴に駆け下りてきて、杖をついて危なげに下っていた高齢の女性にぶつかり派手に転倒させたのだ。しかしあろうことかこの子は一瞥しただけで振り返ることも無く、電車に逃げ込んでしまった。


杖を拾って老婆を起こし一緒に車内に入ると、そこは満員で、老婆の座る席は無かった。しかし見れば件の子がゆったりと座り、学習道具を広げている。よせばいいのに団塊農耕派の青臭さが出て、その子に席を譲るように促す。命令調では無く、お願い口調だったはずだが、この子は目を合わせようとせず、梃子でも動かない。


腹が立ってきた。自分の子なら張り倒すところだが、我慢してデコピンでおさめた。ところが意外にもめそめそと泣き始めたのだ。そして逃げるように去っていった。


「この人です」発車間際に戻ってきたその子が言う。初めて聞く声だった。そばには駅員が立っている。唖然としたが、この子の告げ口で犯罪者にされてしまうかもしれない、小心者の団塊農耕派はすこし怯えた。


しかし老婆が寄ってきて「おでこを中指で撫でただけ」と言い、団塊農耕派のピンチを救ってくれた。駅員も納得して帰って言ったが、もし彼女のひと言が無ければ濡れ衣を着せられた痴漢の犯人と同じ運命を辿ったかもしれない。



巨人の阿部監督が娘に暴力を振るったという理由で監督の座を追われたが、実は情状酌量に値する点がいっぱいあり、復帰の署名運動まで起きている。


しかし拙速だったとしても一度出した進退結果は覆らない。コンプライアンスの過剰なまでの徹底が保身のための予防策であるという考えが日本中に浸透していて、灰色は簡単に黒になるが、白にするのはよほどの度胸と時間が要る。


そしてどんなに庇っても庇いきれない一つの大きな壁がある。それが阿部前監督の名誉回復を困難にしている。「暴力、体罰はいかなる場面においても許されない」という反論できない鉄則だ。この原則に従えば大宮駅でのデコピン事件も有罪ということになり、もし化粧品会社の現役時代なら役職を解かれていたかもしれない。


しかしこの鉄則、問答無用の度が過ぎているのではないかと思う時がある。〝許される暴力〟と言うのは本当に無いのか、団塊農耕派は批判覚悟で問い掛けたい。化粧品会社が「百害あって一理なし」と決めつけている紫外線にもビタミンDの産生という長所があるように、暴力(もちろん些細な)にも使い方次第で役に立つことがあるのではと思ったりもする。



年配者は若い頃に学校や家庭でさんざん殴られたことを勲章のように言う。昨今の子のようにトラウマになったりせず、むしろ成長の糧になったとまで言う。


たとえば教師、見境無く暴力を振るったが、その一方でその子の輝ける場所を見つけてあげていたような気がする。チャットGPTなどに聞かなくても適切なアドバイスをくれる教師や親が居た。怪我でもしない限り、あの時代、暴力とはスキンシップの一種になったこともある。時代遅れの発想に批判の矢は必至。血だらけになる覚悟で書いてみた。

(団塊農耕派)

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