top of page

【日本商業新聞 コラム】-719- 農業改革&農協改革

  • 日本商業新聞
  • 6月24日
  • 読了時間: 3分

団塊農耕派、76歳。それでもコメを作り続けるのにはワケがある。


まず「そこに田んぼがあるから」。先祖代々の農地を荒らすわけにはいかないのである。そして「心の安らぎ」。大地の中で生きているという安心感と植えたばかりの苗が爽春の風にそよぐ光景を見る幸福感は何物にも代えがたい。



だから天からの授かりもののコメで儲けようと思ったことがない。そんなことをしたら田の神様の怒りを買ってしまう。コメの値段が急に高騰し、農家には千載一遇の追い風が吹いているが、団塊農耕派には関係ない。



大規模農家を除けば、コメ農家はずっと赤字だった。農協から提示される米の買取価格は下がる一方なのに、肥料代や農機具のメインテナンス費用は年々膨らみ続けた。農家は将来展望の見えないまま、惰性で米作りをしていると言っても過言ではなかった。


でも不思議なことに悲壮感はなく、多くの農家は自分たちの食べる分に少しだけ上乗せして収穫できればそれでよかった。余った分を農協に買ってもらえば子や孫のお小遣いにもなる、その程度の金銭感覚だった。そう日本の農家の大半を占める兼業農家は別の財布を持っていて、コメつくりは一家の屋台骨を支える職業ではなかった。



だから長年の農協の悪政にも耐えられた。規模を大きくして収益を上げるというばら色のストーリーには魅力を感じるが、悲しいかな形の悪い小さな田んぼを分散して持っている農家にとっては机上の空論でしかなく、まして高価な農業機械の購入が不可欠となれば、実現不可能な絵空事だった。



いま農協は存在価値が問われている。農協は戦後の農地改革以降、ずっと零細農家側に居て、減反政策など多くの過ちを重ねて求心力を失っていったが、組合の姿勢としては間違いではなかったと思う。


ただ一方で主張の強い大規模農家を敵視したり、日本農業の将来ビジョンを描く努力を怠ったり、その消極的な姿勢は責められていい。大規模化を進めれば規模の小さい農家が消滅していく…、農協には越えられない意識の壁があったと思う。



狭い農地、高齢者が中心の労働人口構成、そんな中で、将来の日本のコメ作りをどうしたらいいか…、両極端な二つの回答が用意できる。一つはコメを安く買いたい消費者側に立って、あるいは儲かる近代農業を目指して、国が率先して耕地整理や法人化に取り組む方向だ。


この方向に進めば農協の出番はほとんど無くなる。このとき零細な農家は農地を提供することになり、一見気の毒に思えるが、必ずしもそうではない。むしろその日の来るのを待っているような気がする。団塊農耕派もその例にもれない。農家の長男として農地を押し付けられたのが運命なら、没収されるのもまた運命だと割り切ることができる。



でも寂しさは禁じえない。コメ作りで味わう情緒性と喜びは特別なものなのだ。それを失うのは辛い。農地を提供した途端にきっと老化も始まると思う。そこでもう一つの考え方が登場してくる。これまでの農協のままであり続けるという後ろ向きな選択肢だ。農協をコメ作りの好きな人たちのためのサロンとして位置付けても良いのではと思う。


農協と一線を画した農業改革は国(農水省)主導で大胆に行い、そして農協は零細農家の味方としてその放漫性を一層強める。現役百姓の身勝手な提案ではある。(団塊農耕派)

Comments


bottom of page