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【日本商業新聞 コラム】-718- 長嶋茂雄とともに

  • 日本商業新聞
  • 6月17日
  • 読了時間: 3分

私の最初の野球観戦は神宮球場だった。叔父に連れられて家から3時間の行程は小学3年の私にはきつかったが、外野の芝生に寝そべったとき、何ともいえない爽快感を感じたものだ。試合は東京六大学リーグの明治対立教戦。明治は叔父の母校だった。野球部のOBの叔父には内野に席が用意されおり、私は無料の芝生席でひとり、母の作ったおにぎりをほおばりながら観戦した。



後でわかったことだが、この試合に立教の長嶋の最多ホームラン記録がかかっていた。長嶋が同郷であることは知っていたが、ファンでもなく、それほどの思い入れもなく見ていたが、4番サード長嶋はこの試合5打席5安打の活躍で立教を勝利に導いた。



ファンになるのは早かった。さっそく長嶋について調べてみる。このシーズン、長嶋は13本のヒットを打って首位打者になったが、そのうち5本は私の見た試合で打っている。それ以外はすべて不調だったのだ。またホームラン記録となる8本目はその1ヵ月後、周囲が諦めかけた学生最終試合に打っている。のちにハンカチ王子こと斉藤佑樹が「何かを持っている」と言う言葉を流行らせたが、小学3年の私は長嶋に同じものを感じた。



その長嶋が巨人に入った。4年生になった私も村の少年野球チームに入った。まだ背番号16の一塁川上に憧れる少年の多い時代、サードは人気のポジションではなく、やすやすと入り込むことが出来、長嶋が4番を打つ頃には私もレギュラーに近いところに居た。そろそろユニフォームを着るのも一般化していたが、長嶋の活躍とともに大抵が背番号3を選ぶようになり、チームは背番号3だらけになったが、ひねくれ者の私は7番をつけた。



その後の長嶋の活躍は語るまでもないが、高度成長前後の日本と自分を長嶋と重ね合わせて語りたがる団塊世代はたくさん居る。私もその一人で、人生の節々に長嶋は登場する。監督としての迷采配ぶりや、やたら他球団主力選手を欲しがる悪弊など負の側面もたくさんあるが、長嶋にはそれらを水に流すオーラがあった。同じことを後輩監督の原がやったら罵倒されるが、長嶋なら笑って見逃されるのである。



強運の持ち主でもあったと思う。神様はいつも長嶋の味方で、もっと良い成績を残した王貞治には厳しかった。そのほうが日本が元気になれると思ったのだろうか。実は同期入団に早稲田の4番の森徹がいた。中日ドラゴンズに入った彼は前半戦、長嶋以上の成績を残したが、後半戦をケガで欠場し、新人王を長嶋に取られてしまった。



1年を通して出ていたら彼が新人王になっていたはず。翌年森はホームラン王と打点王をとり長嶋をしのいだが、スーパースターとして歩みだした長嶋を脅かすのはその年までだった。その後の急失墜は神さまの仕組んだ意地悪だったような気がする。唯一の神さまの勘違いは、先の東京五輪の最終聖火ランナーに長嶋、王、松井を差し置いて大坂なおみを使ってしまったことだ。長嶋の主役伝説が終わりに近づいたことを感じるひとコマではあった。



そして日本中がエコヒイキした長嶋茂雄が亡くなった。一つの時代の終焉を感じる。もう巨人ファンでなくてもいいという安心感は意外に心地よい。

(団塊農耕派)

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