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日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -686- 改むるに憚ることなかれ

ちょっとだけ世間常識をはずせば活路は見えてくるのに、その勇気が無く、前例に縛られ、静観を決めこむから問題はますます肥大化する…、そんな例はたくさんある。



火葬場が〝火の車〟とは笑えない話だが、いま火葬の2週間待ちは常識のようだ。団塊世代が後期高齢者入りして需要が一気に膨らむと言うのにこの体たらく、行政の怠慢は批判されていいが、彼らにもごもっともな言い分はある。火葬場は住民に嫌われるので増設となると予算の確保以上に住民の説得が必要となる。ついつい後回しになってしまう、と。


しかし葬儀も墓も要らないという人が増えている。火葬についても焼いてもらうだけで十分と思う人も居る。すでにお経はお寺で読んでもらっているわけだし、不謹慎を覚悟で言えば、火葬場が時短に努めてくれたって何の文句を言わない。


セレモニー的な長い待ち時間が無くなり、一日の処理数が増えればありがたいことだ。また火葬場は友引の日が休業だが、これも止めて営業すればいい。そうすれば火葬場は今の数で用は足りる。


また猛反発を食らうかもしれないが、土葬を復活させるのも手だ。土から生まれ土に帰るという考えは理解できるし、火葬のように大きな火力エネルギーを必要としないので、SDGsの時代にはふさわしい。団塊農耕派は祖父を土葬で送ったが、六道(ろくどう)が穴を掘り、湯灌人(ゆかんにん)が体を清める風景を今でも覚えている。密室で高熱で焼かれるよりも村人総出でおごそかに埋められた方が人生の終わりにはふさわしく思える。


しかし土葬にするには役所で面倒な手続きをしなくてはならない。衛生上の問題や土壌汚染などが心配だと言うが、例外を嫌がり、物事を一律に決めてしまいたい役人の気質も見てとれる。


人それぞれに違う思想や宗教があるのだから、異なった生き方、死に方は認められるべきなのだが、それを認めると役人としては異常値になってしまうらしい。



本質を考えない傾向は交通行政にも現れている。トラック便やタクシーのドライバーの就業時間を規制するという2024年問題。それにより荷物の遅配は慢性的になり、地方からタクシーが消えるのに「ドライバーさんの健康のために」と行政は善人ぶる。


残業代が減り、体力をもてあます圧倒的多数のドライバーのことなど立案者は考えていない。稼ぎたい人に存分に稼いでいただくことは、停滞している日本経済にとってもプラスに働くといった考えがあってもいいと思うのだが。一方で企業トップに賃金のアップをお願いし、一方で収入減につながる法律を施行する…、日本の政治はどこか間が抜けている。


また高齢者の運転技能の低下をあざ笑い、認知症の心配までさせて免許を返納させようとする一連の恫喝的な政策は老人虐待と言える。高齢者の交通事故は多く、その原因が老化にあるのは間違いないが、免許の返納がどれだけ高齢者家庭を困らせ、老人の痴呆化を進めるか考えてもらいたいものだ。事故は痛ましいが、若者であれ高齢者であれ、その責任を重く受け止めて慎重に運転をしてくれればいいわけで、返納させるだけが能ではない。



ルールに不都合が生じた時、それを更に強固にするより、止めてしまったほうがいいこともある。まもなく団塊農耕派は恐怖の運転免許書換えのときを迎える。

(団塊農耕派)

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