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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -665- 須藤先生のこと

工学部で最も人気の無い研究室に団塊農耕派は入った。4年生になると全員が研究室に配属になるのだが、みな就職のことも考えて研究室選びをする。人気の研究室の競争率は高く、この時期は殺伐とした空気に包まれる。しかし団塊農耕派はどこでもよかった。無競争で入れる楽なところを希望した。結局須藤研究室には他の研究室からはじかれた落ち武者二人を含めて総勢5名が入った。万博で盛り上がっていた昭和45年春のことだ。


噂どおり面倒見の悪い教授だった。いわゆる学究肌で自己本位、学生は自分の研究の補助員くらいにしか考えておらず、教育者としては異例、いや不適と言わざるを得なかった。くわえてエコヒイキが甚だしく、4月に嫌われると一年間つらい研究生活を送ることになるというのがこの研究室の前評判だった。


5月に早速事件が起きた。勝手に就職先を決めてきたのだ。四日市にある石油会社に行けと言う。卒業後は千葉に帰って農協にでも勤めようと思っていた団塊農耕派にはありがた迷惑だった。しかしむべに断るわけにも行かず、新幹線代を負担してくれるという誘惑にも負け、面接に出かけた。結果は不合格。公害を出したその会社を批判し、学生運動に励むラジカルを装ったのだから当然の結果だった。


 その結果に須藤先生は怒った。会社の人事担当者を大学に呼びつけ、「2度とお宅の会社には学生をやらない」と剣幕を張った。引くに引けなくなって事実を話すと、今度は怒りの矛先が段階農耕派に向けられ、「もう面倒見ない。就職口は自分で探せ」。しかし怒るのも早いが収まるのも早い。翌朝には団塊農耕派の実験室に来て、「あの会社は将来がないから落ちてよかった。お前は賢い」と笑みを浮かべて言うのだから始末におえない人だった。


その後化粧品会社に就職したいと言った時も先生は猛反対した。「化粧品など男のやる仕事じゃない」「何のために勉強してきたのだ」と取り付くシマもない。そして最後はいつもの常套句「勝手にしろ」。かくして団塊農耕派は学校推薦をもらわずS社に入社する。


卒業後も先生の言動に翻弄された。あれほど見下していたS社に毎年学生を推薦してきたし、自分の姪の就職のときには勤務場所まで指定してきた。まだ社歴の浅い団塊農耕派が会社でどんな苦労を強いられることになるかなど斟酌する人ではなかった。


結婚式の仲人のドタキャン劇もあった。団塊農耕派は結婚式の直前、ある事実に気づく。研究室の先輩が先生の仲人で同日同時に結婚式を挙げるという。しかも先生にお願いしたのは団塊農耕派よりずっと早く、場所も帝国ホテルだった。驚いて先生に電話すると、「そうだったか、でもお前のほうに行くよ」と軽々しい返事。しかし先輩であること、先にお願いしていたこと、リッチな会場であること、全てで完敗を悟った団塊農耕派は先輩に先生を譲ることとした。勤務先の上司に急遽代理をお願いして事なきを得たが、この時のことを思い出すと今でも冷や汗がでる。後年このことを話すといつも決まった言葉が返ってくる。「お前の結婚式に出るつもりだった。余計なことをしてくれた」反省のイロ全くなし。


そんな先生が3年前、100歳で亡くなったが、葬儀には多くの卒業生が集まった。あれだけ自分勝手な人だったのになぜ? 最後まで予測不能な人だった。

(団塊農耕派)

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