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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -664- 浦安

団塊農耕派は28歳から23年間、浦安に住んでいた。


今はディズニーランドも有り、都心にも近いので〝住みたい町ランキング〟の常連になっているが、当時は市にもなっておらず、山本周五郎の〝青べか物語〟そのものの漁師町だった。


銭湯とすし屋はいっぱいあるのに、スーパーやコンビニは一軒も無く、魚は魚屋に、野菜は八百屋に、靴は下駄屋に、佃煮は漬物屋へ、といった按配だった。隣の葛西や行徳にはスーパーが乱立しているのに浦安の商店主たちは頑なに家業を守り続け、組合を作って巨大な流通業が入り込むのを防いでいた。化粧品屋もあったが、客の姿はまばらで、井戸端会議に場所を提供していた。浅草の芸人も「浦安の連中に見せる芸などない」と小ばかにし、江戸川を渡らなかった。


それでも浦安は居心地の良い町だった。お節介の度が過ぎるのが玉にキズだったが、この町にはどこの町でも失いかけていた相互扶助のしきたりがまだ色濃く残っていた。いま政府は少子化対策として〝こどもまんなかの社会〟を作ろうと躍起だが、その雛形のようなものが当時の浦安にはあった。町が子どもを育てていたと言っても過言ではなかった。団塊農耕派の息子たちは今でも「親以上に近所のお年寄りに叱られた」と述懐する。


浦安の転機(堕落)は千葉都民の流入だった。地下鉄が走り、TDLができ、浦安をおしゃれな町だと喧伝するメディアもあり、人口はあっという間に数倍になったが、それ以上に面積が膨れた。東京湾の埋め立てにより、気がつけば7倍の広さになっていた。そこにやって来たのは〝東京に住むにはやや財力に欠ける都内に通うサラリーマン〟で、排他性と独立心が強く、悪さをした子どもを叱ろうものなら百倍返しが待っていた。そしてだんだん隣近所が見えなくなり、浦安もどこにもあるつまらない町に成り下がっていった。


商店街の結束が壊れて駅前に西友ができると、一気にタガが外れ、スーパーの進出が止まらなくなった。そして同時に多くの零細な専門店が新参者の廉売と便利さに負けて暖簾をおろす事態に陥った。修理が中心だった金物屋の爺さんは息子に説得されてコンビニに業態替えしたが、その無味乾燥な商い方法に嫌気が差し、3年も持たずに店を閉めた。銀座のすし屋までが買い出しに来た老舗の卵焼き店もスーパーのテナントに入った翌年、家賃の値上げを拒んで廃業に追い込まれた。浦安フラワー通りという地元の人しか知らない商店街にあった件の化粧品屋も同じで、タケシの『元気の出るテレビ』でその寂れ方が特集されて一時だけ客足を増やしたが、あとは尻つぼみで、まもなく閉店を余儀なくされた。みな共通に言う。「浦安は漁師町のままでよかった」と。


少子化を防ぐことは必要だが、手段が間違っている。相変わらずのバラマキ政策は砂漠に一滴の水を垂らすだけで、社会構造に変化はない。子どもに注ぐべきはお金では無く愛情なのだから市井の人はお節介することを躊躇してはいけない。また親もそれを受け入れる柔軟性を持たなくてはならない。大人は自分が育ってきた人恋しい社会を思い出し、我が子をその輪に入れればいい。国はこれまでも地域と共生してきた町の化粧品店や電気屋を拝金主義の大企業から守る政策を真剣に考えてほしい。

(団塊農耕派)

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