ちょうど50年前の今頃、入社半年後の私は毎日会社を辞めることばかり考えていた。研究員として採用されたのに配属されたのは工場で、それも本社系列ではなく、協力会社と位置づけられたメーキャップの工場だった。スコップを握り、ドラム缶を転がし、粉の浮いた風呂に入って帰るという日常に嫌気がさしていた。
配属されたのは技術課と言って、新製品を工場で量産する段取りをつくる部署で、その分野の知識を持たない新人が職人肌の製造課の人たちに交じって働くのはきつかった。それでも半年という時間が私を逞しくしてくれたようで、自分の判断で一人で場内を動き回れるようにようになると「若造のくせに」という陰口も聞かれる様になってきた。それは苦痛ではなく、勲章のように思え、心地よいことでもあった。
悩みはその本来の仕事が無くなったことに起因する。この年本社は1個の新商品も出さないことを決めていた。そして夏の終わりから技術課は開店休業になった。課長が私に「何をしようか?」と相談する始末で、多くの技術課員は現場に借り出されていった。
私は数人のメンバーとともに既存商品の改良に取り組むことになった。しかしこの進め方にルールがなく、禍根を残す結果となった。最初は生産工程を見直して商品品質を向上させる方針だったが、進めていくうちに処方まで手をつけないと根本解決にならないと思うようになってきた。
しかしそれは処方を作る研究所の領域で、工場が、それも協力工場ごときが、聖域に口を挟むことなど断じてゆるされなかった。
ところがそんな社内力学を知らない新米の私は無鉄砲な行為に出る。研究所長パトロールという年次報告会で、あるブランドのアイライナーの品質上の問題点を挙げ、その改良処方を提案してしまったのだ。
もちろん研究所を挑発するつもりなどなかったが、報告テーマに事欠く工場長や上司はその後に起こる研究所とのバトルを予想できなかった。
工場サイドに処方の拙さを指摘された研究所の担当者は怒り、私は研究室に呼ばれた。大部屋の片隅でその会合(いや叱責)は行われたが、研究室中の人間すべてが敵に見えた。担当者は最も過激で、私の実験の不備を指摘し、それまでの処方の方が良いと言い張った。結局この日の会合では〝改良の必要なし〟に落ち着いた。
帰り道、やりきれない怒りを憶えたが、一方で研究員にとって処方とはイノチの次に大切なもので、それを否定するにはよほどの根拠と度胸、そして配慮がなければならないと悟った。しばらく何とも言えない閉塞感にさいなまれ、それはこのまま会社生活を続けていったほうがいいかという問題に変わっていた。
しかし私の5月病(実際には秋だが)は軽症だった。とにかく忙しく、連日続く2つのファンデーション(AQとBF)の生産トラブルが続き、その対策に明け暮れた。気が付けば本社から新製品企画の便りも聞かれるようになり、本来の仕事も増え始めていた。
悩む暇も無かったことで克服できた私の5月病だったが、令和の時代には通用しない野蛮なやり方だと思う。ただ放っておかれただけのことなのだから。
(団塊農耕派)
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