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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -653- イスラエルVSパレスチナ

 団塊農耕派、中学1年の春のこと、驚きの入学式を迎えた。なんと昔ながらのぼろぼろの木造校舎に似つかわしくない着飾った生徒がたくさんいる! それも見たこともない子が! 小学校の同級生がまるごとすぐそばの中学に進み、他校からの入学生などめったにいない田舎の学校だったので、入学式も日常の延長だと考えていた団塊農耕派には大きなショックだった。普段着の、それも兄姉のおさがりを着た小学校からの同級生たちはみな同じ気持ちで、借りてきた猫のように縮こまっていた。


 ワケは校長の式辞でわかった。近くに団地ができ、出来たばかりの京葉コンビナートで働く人の入居が始まったのだが、新しい中学校の建設が遅れ、やむなくそこの子供たちは団塊農耕派たちの中学に入ってくることになったという。「仲良くしてください」と校長が言い、式は終わったが、教室に戻っても村の子供の沈黙は続いた。


 団地の子は元気だった。成績も良く、服装から弁当のおかずまで、まるで別の惑星から来た子供のようだった。それから毎月数人ずつ転校生が入ってきたが、その人数だけテスト結果の順位が落ちるという現象も生まれていた。また団地の子は大人びて、饒舌で、団塊農耕派が思いを寄せていた女の子が団地の子と仲良くしているのを見るのも時間の問題だった。卓球台も野球のグローブも、共有で使うものはことごとく団地の子に占領され、級長も運動会の応援団長もみな団地の子の手に渡ってしまった。たかだか1学期のうちに。


 まさに「庇を貸して母屋をとられる」という状況だった。だから大げさだがイスラエルに土地を奪われ自由度を無くしたパレスチナ人の気持ちは少なからずわかる。よそ者に蹂躙され、地元が地元らしさを失っていくのは耐えられないことなのだ。


 しかし団地の子たちはイスラエルとは違った。ひがんでいたのは団塊農耕派をはじめとする村の子たちの方で、彼らは地域に溶け込もうと必死だった。5月の農繁期休暇には農家でもないのに近隣の農家の手伝いをし、村の子の義務だった神社の清掃にも加わった。都会育ちの子供が自由奔放に暴れまわる空間が田舎にはあったのだと思う。


 少しずつ打ち解けあい、土産の白米をかついで団塊農耕派が初めて団地の子の家に遊びに行ったのは梅雨のころだった。都会の生活様式の一部を垣間見、食べたこともない珍しいものをごちそうになり、自分の家の古臭さ、不便さを痛感して帰ってきた思い出がある。


 秋、団地の中学校の校舎が完成すると40名近くにまで増えていた団地の子は全員転校して行った。そして小学校時代と同じ2クラスに戻った。たった1学期しか一緒ではなかったのに、送別会は別れを惜しむ生徒の涙で埋まった。


 それだけではない。卒業後は4年に一度同窓会を開いているが、70歳を超した今でも団地の子の出席率が異常に高い。そこでは誰もが「中学時代の思い出は団地の学校にはなく、たった100日しか在籍しなかった村の学校にある」と言い、旧交を温めている。育ちは違っても同じ中学1年生、互いの存在を認め合ったからこそ、その後半世紀以上も友情が続いている。イスラエルとパレスチナの施政者に爪の垢を飲ませたい。

(団塊農耕派)

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