top of page
日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -624- 忘れてしまったもの、取り戻したいもの

将棋には興味はないが、羽生善治九段や藤井聡太5冠の名前くらいは知っている。前者は若くして7冠を取った名人だが、今は無冠に甘んじている。後者は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの20才の若者である。王将戦7番勝負はこの世代を超えた2人の王者の間で行われた。


 最終的には藤井が勝ったが、羽生が勝った2局に関係者は斬新な思いを抱いたという。団塊農耕派には何のことだが分からないが、それは将棋が好きでこの道に入り、地道に精進してきた棋士にとっては、とても懐かしく、将棋の楽しさを感じさせる勝負だったようだ。


 「藤井聡太や多くの若手の棋士の師匠はAIだ」と言えば語弊があるかも知れないが、修行、とりわけ自習の場においてAIは模範解答本のような役割を果たしており、そのディレクションを一つずつ身につけることにより棋士たちは強くなっていく。いま大方の若手棋士はそういう環境の中に居るが、そんな将棋を楽しくないと思う人は少なからず居る。


 そんな中、羽生の勝った2局はAIが絶対お奨めしない大胆なものだったそうだ。自由奔放な手で藤井のAI回路を乱し、その修復を遅らせ、その間自分のやりたい将棋をやる。藤井は修復に2時間もかけても、自分のペースを取り戻すことができず、どうとうギブアップ…、そんな流れだったようだ。


 似たようなことはWBCでもあった。細かいデータ野球を捨て去り、野球の楽しさを追及した日本チームが世界一になった。盛り上がりは尋常でなく、多くの名場面を残したが、団塊農耕派の涙腺は緩みっぱなしだった。少年野球や高校野球の一途さ、楽しさにこそ野球の原点があり、策士を装い、選手を将棋の駒のように扱う原や野村の野球が如何につまらないものだったかを悟るに十分だった。栗山にあって原にないもの、それは選手を信用する度量と、監督が主役にならない謙虚な心と、勝利を目指しチームをまとめる統率力だと思うのだが、最近日本のプロ野球の監督にも高津や中島のように選手を育てることを第一義に考える監督も生まれつつある。この2人はいみじくも昨年のリーグ戦を制覇し、育てられた無名の選手が超一流に成長して優勝の立役者になっている。昨年華々しく登場した新庄監督は、目立ちたがり屋の本能で、「優勝なんて狙いません」と言ったが、このひと言がどれだけチームの士気が下げたか、想像に難くない。WBCで大活躍した選手が、今期は新庄と離れ、他球団に移籍したが、その理由は分かるような気がする。野球は楽しく、そして勝ちに向けて精進する…、この王道を貫いているのは大谷だけではなかったのだ。


 企業にもその病巣が現れている。企業には先達から受け継がれた社風があり、それは人と人のつながりで保たれている。四半世紀前、飲み会も運動会もあり、社員はみな家族だった。「釣堀結婚」と揶揄されようが社内結婚する人はたくさん居た。ところがいま多くの企業からこの〝おおらかさ〟と〝あたたかさ〟が消え、社員は将棋の駒になっている。駒でも楽しく動きたいが、評価主義という冷たく重い石がその自由度を奪っている。周囲を慮る心を持たず、自分の業績だけに拘ることは「わが社の社風」に合わないはず、その企業の発展の妨げになるはず…、そう思うのはもはや少数派だろうか。

(団塊農耕派)

Comentarios


bottom of page