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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -618- 私の後に道が拓けた

 バスの中に園児を置き去りにしてしまう不幸な出来事があったが、その後、全国の送迎バスには過剰ともいえる種々の設備を付けることが義務付けられた。また千葉の八街で歩道が無かったために下校中の子供が交通事故で亡くなるという事件が起きたが、役所は速やかにその現場に立派なガードレールを設置した。


 世間が騒ぐと迅速に動くが、悲惨な事件でも起きないかぎり、どんなに陳情を重ねても重い腰を上げないのが役人の世界で、団塊農耕派の住む町でも、田んぼ脇の危険な水路にフタを付けてくれという些細な陳情に耳を貸さない。車が溝に落ちるくらいでは役所は動きそうにないから、「いっそのことオレが溺死しようか」という老人が出てくる始末だ。


 このように災いの後に対策が講じられることはよくあるが、それは施政者にとって屈辱的であり、批判されても仕方ないことだと思ってほしい。


 35年ほど前、団塊農耕派は国際会議で発表の場を与えられ、ドイツのミュンヘンにいた。テーマは有害物質である「トルエンを除いたネールエナメルの開発」だった。この大会は賞に関係ない中間大会だったこともあり、会社は気楽な気持ちで団塊農耕派を派遣したようだ。


 その証拠に本大会なら確実に行われる報告資料の事前チェックも、英語のスピーチのリハーサルも行われなかった。結局、自分でスライドを作って、誰にも見せずに本番に臨んだ最初で最後の人になってしまった。おそらくその2年前、団塊農耕派がアメリカに留学(遊学?)していたことから、そこそこの英語力はあると会社は勘違いしたようで、2年の歳月が団塊農耕派を強固なジャパニーズに戻していたことを忘れていた。


 発表はさんざんだった。前の晩、歓迎レセプションで飲みすぎたことが不調の原因だとずっと言い訳をしてきたが、事実はそうではない。質問の内容がほとんど分からず、〝東洋の微笑み〟だけで逃げ切るしかなかった。同行した研究所長の苦虫をつぶしたような顔は忘れられないが、所長の英語力も団塊農耕派とメクソハナクソで、助っ人にはならなかった。


 もう一つの災難にも襲われた。発表の途中で会場から罵声が発せられ、コトの重大さに気づいたが、途中で止めるわけにはいかなかった。帰国後、欧米で商品の不買運動を提起されかねないほどの騒動に発展してしまったのだが、抗議の中心は当時はまだ顕在化していなかった動物実験に反対する人たちで、その過激さは日本に居ても怖くなるほどだった。日本ではまだそこまでの意識は無く、会社の安全性担当の部署も同情してくれたが、団塊農耕派を責める手紙には「バーバリアン(野蛮人)」というニックネームが付けられていた。


 会社は動いた。二つのポリシーを打ち出した。一つは英語の出来ない奴は海外で発表させない。リハーサルもしっかりやる。そして二つ目が、動物実験の結果は決して発表しない。実験そのものも少なくする、だった。それは会社として大きな意識革命だった。


 おとがめが無かったこともあり、その後この事件を勲章のように思い始めた団塊農耕派は、あろうことか「私にあとに道が開けた」と嘯いてきたが、前述の亡くなった子供の親の気持ちを思えば、そんな軽口をたたくのはもうやめにしようと思っている。

(団塊農耕派)

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