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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -177- 規格外の人たち⑾ 辰子先生のこと

辰子先生には良い思い出がひとつも無い。幼年期に出会いたくなかった人の一人だが、反面教師としては十分で、その後の団塊農耕派の人格形成には大いに役立った。


 えこひいきがひどいとか権力に弱いとかと言うことではない。平たく言えば〝きまぐれ〟で〝言動不一致〟で、そのくせ〝自信過剰〟なのである。生徒の気持ちを逆なでするようなことは日常茶飯事で、しかもそれを教育と思い込み、有能な教師であるかのように振舞う…、流行りの言い方をすれば、生徒ファーストではなく自分ファーストの典型で、とても面倒な先生だったが、父兄たちが最後までそれに気づかず、いや気づかないふりをしていたので、辰子先生はオナゴ校長として地域の名士にまで上り詰めた。


 数年前先生は亡くなったが、葬式に教え子の数はまばらで、この地域の教師の葬式にしては異例の寂しさだったが、それはいみじくも先生が人材育成とか人望という言葉とは対極に居たことを物語っていた。


 辰子先生は生徒の個性や望みを無視し、自分の思うような色に塗りたかったようだ。プロ野球の世界にもやたら奇をてらう采配をする同じような名前の監督がいて、選手を将棋のコマのごとく使い、あげくは選手生命を縮めてしまうが、辰子先生も同じようなことを子ども相手にやった。思いつくままに実行に移し、自画自賛するが、生徒はいつも傷ついた。


 都会から転校してきたばかりの生徒を辰子先生はクラス委員に指名した。それまでクラス委員を務めていた秋枝に事前の説明もなく、ニコニコ顔で発表する先生には不信感を越えて恐怖を覚えたものだ。その転校生も数か月後にはクラス委員から外され、先生の次のお気に入りの典子がその席に収まった。その直前、典子は書道の作品展で市長賞をもらったが、地元紙には典子ではなく、なぜか先生のコメントと写真が載った。


 学年対抗のドッジボール大会でも障害のある子の起用を勝利にこだわる辰子先生が認めず、チームが一丸となって戦おうとする気持ちを削いだ。また「バスに酔うのは気持ちが弱い証拠だ」と怒り、一人の生徒を遠足に行かせなかったこともあった。要するに管理と思いやりを両立できない身勝手な教師だったのだが、小学生の団塊農耕派がそれに気づくには時間が必要だった。


 ちなみに秋枝は先生に嫌われたと思い込み、翌年隣の学校に転校していった。このとき先生は送別の席で、「新しい可能性へのチャレンジ」と言ったが、それは前述の野球の監督が要らなくなった選手をよそのチームに出す時に使う心の通わない常套句と似ている。


 4年に一度の同窓会に辰子先生はいそいそとやってくる。招待された恩師たちが遠慮気味に来るのに、彼女は招待状など無くても平気でやってくる。そしてまるで『24の瞳』の世界が自分たちにもあったかのように昔を美化して帰っていく。生徒のしらけぶりには気がつかない。団塊農耕派にとって幸運だったのは、学年途中にクラス替えがあり、辰子先生とは1学期限りのお付き合いで済んだことだ。当時、先生に嫌われた子がよそのクラスに出されるという噂が流れ、残れなかった子は悲しんだのだが、今になって思えば滑稽なことで、出された幸運を喜ぶべきだった。ところでやっと邪魔者なしで同窓会が出来ると思ったのに、コロナのせいでそれもかなわない。辰子先生の念力、恐るべし!

(団塊農耕派)