「出産が楽だったのも、病気をしないのも、子どもが健やかに育っているのも、『インナーセラムR』を毎日つけているから」
ある化粧品専門店のお嬢さんが会社にやってきて、そう言った。インナーセラムとはブランドQの象徴的なアイテムで、「嗅ぐ」という行為を通して肌が健やかになることを初めて実証したブランドだった。クオリティーオブライフの実現にもつながり、化粧品専門店専用ブランドとして当時お店の支持も厚かった。
開発者冥利に尽きる話だが、額面どおりに受け取るわけにはいかなかった。親がつけているとそばにいる子どもにまでその効果が及ぶ、というのは突拍子しすぎて、それを広言すればいい加減なことを謳うブランドと一蓮托生に見られる心配があった。研究にじっくりと時間とお金をかけてハーバード大学でお墨付きをもらったブランドのプライドもあり、軽々しく合いの手を打つわけにはいかなかった。でもお嬢さんは本気だった。
「研究所で調べてほしい」と言い、彼女なりの見解を続ける。連れてきた娘さんに目をやり、「可愛いでしょう」を連発する。単なる子ども自慢ではない鬼気に迫るものを感じた。「妊娠から出産までずっとそばにインナーセラムがあって、娘は生まれる前も生まれてからもずっとその香りの中にいました。娘にとってインナーセラムは空気みたいなもの…」
熱意に負け、また若干の期待もこめて、1週間後、研究所にお連れすると、また証人として娘さんが一緒についてきた。ここでも「賢い」と「可愛い」を連発し、その原因が遺伝でなく、インナーセラムだと主張した。最初は苦笑していた研究員だったが、彼の口から思いもかけない言葉が飛び出した。お嬢さんの目が輝いた。
「そうかもしれませんね。大人より就学前の子どものほうが、人生経験がない分だけ主観が入らず、香りの効果が強く素直に出るはず。新しい発見かもしれないので、皆で考えてみます。すこし時間をください」
帰りの電車の中で、まさかの展開を喜ぶお嬢さんを見ているうちに不思議な感情にとらわれてきた。そしてうれしくなった。ブランド開発の担当者以上にこのブランドを愛してくれている人がいる。ブランドの本質を理解しようとしてくれている。感謝の気持でいっぱいになった。研究所の回答が楽しみになり、催促のメールは何度も入れた。
ところが、それから20年以上も経つのに、研究所からは一度の報告もない。肝心のブランドQも迷走の末、育成意欲を失った会社や後輩たちに忘れられようとしており、言いだしっぺのお嬢さんもいまはお店から遠のいているという。研究所も研究の切り口を見つけられないうちに時間だけが経ってしまったと当時は若かった研究員が述懐する。要するに関係者全員がブランド愛から覚めてしまったのだ。これはこの会社の伝統的な体質だが、それが化粧品専門店と愛用者を困らせてしまったのだから、いくら反省しても足りない。
さて賢く可愛く育った娘さんのその後だが、今、店を継いでいる。ただ香りは好きでなく、オーガニックコスメの信奉者というから、親が仕込んだはずのブランドQの遺伝子は発現しておらず、壮大な仮説は長期の実験で崩れたことになる。
(団塊農耕派)
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