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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -173- 21世紀枠

最近は大学の入り方にもいろいろある。一芸に秀でていると自己申告するだけで合格できてしまうから入学してからも学習意欲などさらさら無く、保育園の延長みたいだと大学関係者は嘆く。


 勉強が嫌い、成績も悪い、でも大学は出ておきたい、そんな若者に日本の受験社会は甘い。営利優先の大学が大切なお客様として扱ってくれる。筆記試験などという野暮なことはしない。水増しした内申書と実体の無い自己推薦書だけで十分だそうだ。


 純粋であるべき高校野球にも同じようなことが起きている。批判を覚悟で言えば、センバツ高校野球で採用している21世紀枠も同じようなものだ。数年前甲子園常連校の監督が「21世紀枠で出てきた高校に負けたら恥だ」といってマスコミに叩かれたことがあったが、その気持ちは良くわかる。


 誰もが21世紀枠で選ばれる高校は弱いと思っている。分不相応の特別参加だと思っている。そしてその期待を裏切らない。そのほとんどが大敗して去っていく。「良い思い出ができた」と選手は爽やかな言葉を残すが、的外れな感想だ。高校球児が本来あじわう達成感ではない。その後の人生で糧になることもない。


 夏の大会は選抜方法がシンプルで、各県で勝った高校がそのまま甲子園に行く。だから高野連なるジジイたちが口を挟む余地が無い。ところが春のセンバツは違う。ジジイたちに裁量権がある。秋の地区大会の結果はあくまで参考、好きなチームを選ぶことが出来る。

 主観は選定のあらゆるステージで入り込む。先ずは最終選定となる秋の地区大会の組み合わせ。関東大会を例に取れば、7県から2チームずつが参加してトーナメント方式で戦うが、開催県の一位チームは必ずシードされ、初戦は出来るだけ弱い県の準優勝チームと当たるようになっている。甲子園までの関門を少なく、そして弱くしてもらっているわけで、どうみても公平でないなのだが、この長年の悪弊を叩くマスコミを見たことが無い。


 地区大会の結果を地区高野連が嬉しく思わず、世間が騒がなければ自分たちの気に入った高校を選んでしまおうとする老狡さもある。

 今春、静岡の高校が準優勝したのに選ばれないという事件(?)が発生したが、これはそのたくらみが失敗したケースだろう。高野連のサジ加減次第で優勝チームが葬られることもあり、審判の判定に抗議したり、ラフなプレーをすると顰蹙を買ってしまう…、センバツには一昔前の修身教育の名残がある。


 このようにセンバツの選定にはジジイたちの主観が入る。でも団塊農耕派はそこまでは許せる。郷土のチームを甲子園で優勝させるためにその可能性のいちばん高い高校を分別臭い視点で選ぶのだからそれほどの嫌悪感はない。昔、五輪マラソンの日本代表に瀬古を選ぶためにゴールポストを動かしたことがあるが、そこまでの悪辣さも無い。


 しかし21世紀枠の導入はゴールポストを動かしたことに等しい。野球の能力とは別な要因で出場校に加えるのは筋違いだ。選ばれるのは「文武両道」だったり「震災からの復興」に励んでいる立派な高校だが、それは別の場面で称えてあげれば良いことで、高校球児の流す汗と涙とは別のものだ。ところで団塊農耕派の母校は実力では出られそうにないから21世紀枠を狙うと嘯いているそうだ。出来の悪い後輩で恥ずかしい。

(団塊農耕派)