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【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -166- 規格外の人たち(4) 奄美遺族会館の女将

 昭和43年7月、大学2年の私と親友のO木は名瀬の薄暗い喫茶店でこれからのことを話していた。



夏休みに入る直前、突然思い立って、品川の検疫所で簡単な注射と検便だけをして、沖縄行きを決行したのだが、肝心の渡航許可が下りず、途中の奄美大島で足止めにあっていた。お金は底をつき、なけなしの米札56ドルも日本円に替わってしまい、それも明日にはなくなるというところまで追い詰められていた。1ドルが360円の時代だ。



 働くところを見つけたかったが、名瀬には仕事が無かった。銭湯の水汲みや艀(はしけ)作業の手伝いをしてなんとか食事だけは確保している状態であった。浅草の老舗の履物屋の息子であるO木が、実家にお金を無心したため私と喧嘩になり、気まずい沈黙が続いていた。パープルシャドーズの「小さなスナック」が不釣合いの店の中で繰り返し流れていた。



 マスターに長居をとがめられて猛暑の街に出る。O木はもう東京に帰るつもりでいた。帰りたけりゃ一人で帰れ、と突き放したが、今日一日仕事が無ければ、またパスポートが役場宛に送られてこなければ、私も帰ろうかな、と思い始めていた。

 炎暑の中あてもなく歩き始めると、港の近くに奄美遺族会館という建物を見つけた。暑さをしのぎたくて中に入る。お客だと思って応対に出てきたのが岡田さんだった。門前払いを覚悟したが、そうではなかった。黒砂糖と泡盛を前にニコニコと笑う岡田さんがいた。



 「困ったときはお互い様、部屋なんか客が来ないからいくらでも空いている。好きに使いなさい」と言う。さらに「今、島にあんたたちを雇えるところはないよ。復帰が近いので沖縄と鹿児島は景気がいいけど、ここはだめなんだよ。適当に手伝ってくれればいいよ。ゆっくりしていきなさい」と言ってくれた。岡田さんは優しい人だった。10円でケイハン(鶏飯)という奄美の名物ご飯を作ってくれた。「ただでは貸しになるからねぇ。」と言いながら。



 居候生活が1週間を過ぎたころ、名瀬の役場にようやくボール紙製のパスポートが届いた。いよいよ沖縄に行けることになった。別府を出た那覇行きの関西汽船は深夜に名瀬に寄港するが、岡田さんは港まで送ってくれた。



「沖縄はアメリカだよ。気をつけなさい」岡田さんは母のようだった。「何か沖縄で買ってくるものはないですか」という私の問いかけに、「何も要らないよ」と言ったが、私は岡田さんが琉球舞踊を踊るときに使う四つ竹が壊れていたのを知っていた。

 そこで「四つ竹を買ってきましょうか」と言ったところ、「ありがたいけどそんなお金があったらほかのものに使いなさい」と言われた。

 


 名瀬を出航し、10時間で陽光まぶしい那覇泊港に着いた。船上での入国審査で、荷を解くと岡田さんからいただいた薬の袋の中に10ドル札が2枚入っているのを見つけた。ありがたくて涙が出そうになった。四つ竹を絶対に買おうと思った瞬間だった。



 遺族会館は沖縄の本土復帰とともにその役目を終え、岡田さんは職を失う。その後年賀状だけの旧交は続いたが、それも昭和とともに終わる。生まれ故郷の南大東島で岡田さんは90年の人生に終止符を打った。いまでも奄美大島にはよく行くが、奄美の母の作ってくれた10円の鶏飯より美味しいものに出会ったことは無い。


(団塊農耕派)