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日本商業新聞

【日本商業新聞 コラム】心意気と美学 -163- 規格外の人たち⑴ 宮城荘のひとびと

沖縄が日本に返還されて50年が経ったが、その4年前の夏、大学生になったばかりの団塊農耕派は沖縄に居た。あらゆるところに〝アメリカ〟があり、刺激的な2ヶ月だったが、〝ノンポリ〟を自認し、流行りの学生運度とは無縁の大学生活を送っていた身には、沖縄の地を踏むまで現地の人たちの復帰にかける複雑な思いを知ることはできなかった。



 まもなく日米で復帰に向けた前交渉が始まると言うことすら知らず、〝アメリカ〟を味わいに旅に出たのだから、ノーテンキというしかない。


 ずっと貧乏旅行だったが、あまりの炎暑にたまには涼しい所で寝てみたくなり、500円の出費を覚悟して入ったのが那覇にあるユースホステルだった。銭湯の脱衣所、那覇泊港の待合室、神社の縁の下…、それにくらべれば贅沢のきわみだった。ところが宮城荘というこのユースホステル、それまで団塊農耕派が国内で使っていたユースホステルとは全く違うものだった。



 〝無軌道〟という形容詞がピッタリで、ユースホステルに不可欠な宿泊者同士の交流など一切なく、チェックインもチェックアウトもいい加減、宿代を払わずに出て行ってもお咎めなしだった。後日わかったことだが、当時沖縄のホステルには日本から補助金が出ており、オーナーにそれ以上もうける気持ちがなかったようだ。


 この特典を使わない理由がなく、団塊農耕派は約半月の間、ここで2食付の宿泊を無料でさせていただいた。しかし宮城荘にはもっと凄い牢名主がいた。それも5、6人はいた。琉球大学8年生の新垣さんもその一人で、彼はなんと個室を持っていた。「催促されたら払うつもりだったが、もう2年になる」と政治闘争時に見せる鋭い眼光を隠して笑った。



 ほぼ毎晩新垣さんの部屋にはどこからともなく人が集まり、日付が変わるころには怒号が飛び交うのが常だった。断りきれずに団塊農耕派も何度か参戦したが、そこで繰り広げられる議論はすさまじかった。新垣さんはこう主張した。「沖縄の復帰すべきところは1945年8月の日本ではなく、島津氏に侵略される前の琉球王国だ」



 団塊農耕派には意外だった。沖縄の人たちは一人残らず一日も早い本土復帰を願っていると思っていた。しかし沖縄の同世代は別の考えを持って、まもなくやってくる復帰交渉に向けて意見を戦わしていた。「日本がきらいですか」というのが団塊農耕派のせめてもの反論だったが、新垣さんは笑って首を横に振っただけだった。



 記憶が正しければ、このホステルに後に初代の沖縄県知事になる屋良朝苗さんがやって来て、牢名主たちと意見交換したような気がする。当時は学生にも施政者にも広く意見を聞く度量があった。東大紛争でも学長との話し合いは何度ももたれたし、右翼の論客でもある三島由紀夫との議論の場がもたれたこともある。都合の悪い意見を無視し、それを処世術だと思い込む今の日本の政治家とは雲泥の差がある。



 復帰50年の今、昨今の沖縄の混乱ぶりをみるにつけ、ひょっとしたら新垣さんの意見が正しかったのではないかと思うときがある。その新垣さんだが、復帰と同時に退学し、いま沖縄の北部の町で暮らしているそうだが、貯めに貯めた宮城荘の宿代を払ったかどうかは定かではない。(団塊農耕派)

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